天王寺区の宰相山公園にあり、仁徳天皇・天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る三光神社。社伝によれば、寛文元年(1661)に当社は南東方向にある鎌八幡の隣に移転されたが、その後宝永3年(1706)に再び現在地に戻ったという。古くは「日月山神社」とも、「姫山神社」とも呼ばれたらしい。明治11年(1908)に陸奥国青麻の三光宮の分霊を勧請・合祀したことから、「三光神社」と呼ばれ、今日に至っている。「三光さん」は中風封じの神として良く知られており、毎年6月1日から1週間の中風除け祈願の期間には、全国各地から参拝者がやってくる。また、境内は桜の名所としても知られるほか、大阪城と地下道でつながっていると伝えられる「真田の抜け穴」の跡がある。この抜け穴の脇には真田幸村の陣中での指揮姿の銅像が建っている。
所在地 :大阪府大阪市天王寺区玉造本町14-90
本殿にあがる階段の左側に真田幸村の像と抜け穴が並んであります。幸村の銅像は昭和62年(1987)、大阪真田山ライオンズクラブ15周年の記念に建立されたものです。
真田幸村像の台座の石は、真田家の菩提寺・信州長野の長谷寺(ちょうこくじ)から取り出したものを、上田ライオンズクラブが厚意に依り遠路はるばる運んでくれたと、台座碑文に記されています。
三光神社の「抜け穴」の上は参考神社の社務所です。
「抜け穴」は普段は鉄格子の扉で閉められていますが、1年に1度、「抜け穴開放」の日があります。
鉄格子から手を入れて撮った写真です。
賽銭が投げ込まれています。
三光神社の横に「真田山旧陸軍墓地」があります。明治4年に作られた陸軍墓地です。
真田山旧陸軍墓地の由来について
「真田山旧陸軍墓地は大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治四年八月わが国最初の鎮台(後の陸軍第四師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。」
「真田山旧陸軍墓地は大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治四年八月わが国最初の鎮台(後の陸軍第四師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。」
「戦後陸軍省廃止と共に国家が維持及び祭祀を行う事が出来なくなり、大蔵省よりの大阪府又は大阪市の宗教団体、遺族会等により、維持管理を行うべしとの通牒に基づき、財団法人大阪靖国霊場維持会が創立され、以来祭祀については靖国霊場維持会他有志多数の奉仕により行われております。」
「真田山は大阪城の出丸で真田幸村が陣地を構えて、徳川の大軍を迎え撃った古戦場であります。敷地は5,359(17,685平方米)あり、墓地には西南の役以来、日清、日露及び今次第二次世界大戦に至る間における、戦没英霊の御冥福を祈念し、四千八百余柱と清国及び独逸人戦病没者十柱の墓標が建立されており、尚霊堂(納骨堂)には四万三千余柱の遺骨が奉安されてあります。」
この墓地を通って心眼寺(しんがんじ)に行くことができます。
心眼寺は、1622年に白牟和尚(はくむ)が、真田信繁(真田幸村)と真田大助の冥福を祈るために創建した堂舎です。
心眼寺は、1622年に白牟和尚(はくむ)が、真田信繁(真田幸村)と真田大助の冥福を祈るために創建した堂舎です。
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