【弓削道鏡と八尾市】
弓削道鏡(ゆげのどうきょう、?~772年)は奈良時代の高僧で、八尾市南部を拠点にしていた豪族・弓削(ゆげ)氏の出身です。「弓削(ゆげ)」という文字は、今も八尾市の地名に残っています。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、宮中での看病に功績があったとして称徳天皇(718年~770年)からの信任が厚く、太政大臣禅師、法王と次々と重要なポストを務めたといわれています。
称徳天皇は、平城京とは別に行幸する際の西の京(みやこ)として、現在の由義(ゆげ)神社(八尾市八尾木北5丁目)付近に由義宮(ゆげのみや)を造成するための工事を進めていましたが、称徳天皇の崩御とともにそれらは中止されました。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)自身も政敵との争いに巻き込まれ、その地位から失脚し、その後、下野(しもつけ)国(現在の栃木県)に左遷され、称徳天皇の後を追うように、その地で生涯を終えたといわれています。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう、?~772年)は奈良時代の高僧で、八尾市南部を拠点にしていた豪族・弓削(ゆげ)氏の出身です。「弓削(ゆげ)」という文字は、今も八尾市の地名に残っています。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、宮中での看病に功績があったとして称徳天皇(718年~770年)からの信任が厚く、太政大臣禅師、法王と次々と重要なポストを務めたといわれています。
称徳天皇は、平城京とは別に行幸する際の西の京(みやこ)として、現在の由義(ゆげ)神社(八尾市八尾木北5丁目)付近に由義宮(ゆげのみや)を造成するための工事を進めていましたが、称徳天皇の崩御とともにそれらは中止されました。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)自身も政敵との争いに巻き込まれ、その地位から失脚し、その後、下野(しもつけ)国(現在の栃木県)に左遷され、称徳天皇の後を追うように、その地で生涯を終えたといわれています。
八尾市の弓削の地は道鏡の出身地です。道鏡は「俗姓は弓削連河内人也」と続紀に記され、若くして葛城山に登り、如意輪法、宿曜秘法を修め、看病禅師として名声を博し、孝謙天皇の病をなおし、信任をえて、ついに法王(皇)となりました。 しかし称徳天皇の死去とともに失脚、下野国薬師寺の別当におとされ、宝亀三年(七七二)に歿しました。称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得ました。
【由義神社】(ゆぎじんじゃ)
由来については、
「由義神社は 由義宮(西の京)に、神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)稱徳(しょうとく)天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郡にまたがる広域の中心由緒深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬(すうけい)の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳(そうごん)な式内河内五社の一社である立派な旧社であったが、中世たび重なる兵火により焼失し、住民も亦(また)諸方に分かれたが、江戸時代、貞享(じょうきょう)三年(一六八七)氏地に天然水害多く、氏子は霊験(れいけん)あらたかな祭神素盞鳴命(すさのおのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀(まつ)り、神社を再建して由義神社と稱す。三〇〇坪余の境内に本殿幣殿(へいでん)拜殿絵馬所(えましょ)を存し 末社(まつしゃ)に皇大神社を祀(まつ)り氏地は八尾木中田にして、夏祭は七月二十日 秋祭は十月二十日である。神社は以来文化三年(一八〇七年)明治八年、明治三十九年、大正十三年と改修された。このたび多額の浄財寄進(じょうざいきしん)により、老朽(ろうきゅう)著しい本殿、幣殿、拜殿、絵馬所、鳥居、御手洗所(みたらいしょ)、狛犬(こまいぬ)その他附帯改修工事を完了し、末ながく氏地氏子の家運隆昌、五穀豊穣、災害防除(かうんりゅうしょう、ごこくほうじょう、さいがいぼうじょ)を祈願する産土神(うぶすながみ)であり、氏神である由緒を茲に記(しる)す。」
「由義神社は 由義宮(西の京)に、神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)稱徳(しょうとく)天皇たびたびこの地に行幸され、その宮域は若江、大縣、高安三郡にまたがる広域の中心由緒深い宮跡に、広大な氏地と氏子により崇敬(すうけい)の精神をもって造営され、その規模、格式共に近隣に比をみない堀を巡らし、森をようした荘厳(そうごん)な式内河内五社の一社である立派な旧社であったが、中世たび重なる兵火により焼失し、住民も亦(また)諸方に分かれたが、江戸時代、貞享(じょうきょう)三年(一六八七)氏地に天然水害多く、氏子は霊験(れいけん)あらたかな祭神素盞鳴命(すさのおのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀(まつ)り、神社を再建して由義神社と稱す。三〇〇坪余の境内に本殿幣殿(へいでん)拜殿絵馬所(えましょ)を存し 末社(まつしゃ)に皇大神社を祀(まつ)り氏地は八尾木中田にして、夏祭は七月二十日 秋祭は十月二十日である。神社は以来文化三年(一八〇七年)明治八年、明治三十九年、大正十三年と改修された。このたび多額の浄財寄進(じょうざいきしん)により、老朽(ろうきゅう)著しい本殿、幣殿、拜殿、絵馬所、鳥居、御手洗所(みたらいしょ)、狛犬(こまいぬ)その他附帯改修工事を完了し、末ながく氏地氏子の家運隆昌、五穀豊穣、災害防除(かうんりゅうしょう、ごこくほうじょう、さいがいぼうじょ)を祈願する産土神(うぶすながみ)であり、氏神である由緒を茲に記(しる)す。」
住所:大阪府八尾市八尾木北5丁目174
アクセス:近鉄「高安駅」から徒歩約20分/近鉄バス「八尾木」から徒歩約5分
アクセス:近鉄「高安駅」から徒歩約20分/近鉄バス「八尾木」から徒歩約5分
境内に「由義宮旧址の碑」があります。弓削道鏡が、称徳天皇の信任をえて、その郷里に設けられた行宮で、のちこれを由義宮となし、神護景雲年3年(769)天皇再度行幸にあって、ここを西京となし、造由義大宮司や造由義寺司がおかれ、また河内国は河内職とされました。宮域は大県、若江、高安の3郡にわたる広大なものでした。 南方には由義寺が設けられ、その名残りの金剛蓮華寺は、天文22年(1553)に三条西公条が、吉野詣の途中ここに参詣し、八つ尾の鶯の名所であったとされています。
「由義宮旧址の碑」
【弓削神社】(ゆげじんじゃ)
八尾付近に勢力を保持していた物部氏の一族である弓削氏の氏神です。八尾の弓削神社は、JR志紀駅・長瀬川を挟んで2箇所あり、東側の東弓削一丁目にある弓削神社と西側の弓削町一丁目にある弓削神社の二社一対で二座にあてています。両社とも式内大社です。
なお、鎮座地は弓削が旧河内国志紀郡、東弓削が旧河内国若江郡にあたり、延喜式神名帳には若江郡の式内社と記載されています。
なお、鎮座地は弓削が旧河内国志紀郡、東弓削が旧河内国若江郡にあたり、延喜式神名帳には若江郡の式内社と記載されています。
住所:大阪府八尾市弓削町1-36
アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。駅前の国道25号を越えてすぐのところにあります。
アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。駅前の国道25号を越えてすぐのところにあります。
【東弓削神社】(ひがしゆげじんじゃ)
弓削氏の祖神である天日鷲翔矢命と物部氏の祖神の彌加布都神、 比古佐自布都神の二座をまつる延喜式内社で、河内国でも枚岡、恩智社に次ぐ三指に数えられた大社でした。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、弓矢などの武器の製作にたずさわる弓削部を率いた伴造でした。この一族から物部守屋や孝謙女帝に仕え、その信任を得た弓削道鏡を輩出しました。「続日本紀」の伝える女帝ゆかりの西の京址や弓削寺址も附近にあり、歴史的に由緒深い地域です。
住所:八尾市東弓削1丁目166
アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。東へ徒歩約5分。
アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。東へ徒歩約5分。
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